言葉について
雑記
独り言のようなブログだが、これを頻繁に更新していた時期があった。
Twitterも独り言なのだけれど、長々と何かについての解釈を垂れ流したり、人生哲学を自分なりに思考したりしていた時期があった。
今でも私のツイートやブログは冗長で、蛇足に蛇足を重ねた文章になりやすい。
が、そんな私の文章を読んで、雰囲気やそこに至る考えが好きだと、実際に名指しで言われた事もある。
実際のところ、上記の好意的な印象は、元々私の人間性を知った上で受ける印象だなと思う。
別のブログで長々と自分語りをしたことがあって、長い、よく書けるな恥ずかしくないのかと言われたことがあるので。
話がズレたのだが、私はその通りだと思う。
生き続けている事以外に恥ずかしいことがないからネットに文章を投げ、顔を晒す。
逆にいうと他人に恥ずかしくないのかという人は、生きているのが恥ずかしくないのだと思う。
言葉というものは、長ければ長いだけ恥ずかしいもので、人生と同じだ。
私にとって生まれてこないのが全て良いのと同じで、言葉も生まれてこない方がよいのだ。
例えば、愛 という簡潔な言葉に「愛とは」から始まる説明をつけるからそれが実態から離れていく。
私たちは言葉を尽くせば尽くすほど、その事象について理解すると思い込んでしまいがちだが、実際は逆で言葉を尽くせば尽くすほど実態から離れて本質から乖離してしまう。
対話しよう考えよう理解するために言葉を尽くそうと言うが、そんな事をすると概念に無駄な衣を着せて本質を隠すだけだと思う。
私たちは本来の意味で解釈などできず、美しい言葉の旋律は単調が元である。
華美な装飾は本意を隠してしまう。
きっと釈迦と私たちの思う仏教は乖離しているし、イエスキリストと私たち個人が思うキリスト教も乖離している。
人生も言葉も、本当に大事なことはきっと単調で聞き飽きたような短文なのだと思う。
人を大切にしなさい
自分勝手ではなく周りを見て行動しなさい
自己啓発本など読む必要はなく、自分が日常で本質だと思ったことを集めた方が早い。
言語化は物事に名前をつけ、説明をし、それが何かを詳らかにするというが、本当にそうであるか。
私たちはテレパシーが使えないから説明する為に仕方なく言葉を使っているに過ぎない。
そして、上記の文章を最後まで読んで、言葉を尽くせば尽くすほど詳細になる、実態が浮き出る。という人は何も説明することがないなと思ったところでこの雑記はお終いにしようと思います。